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そんなわけでわたしが「会社名変えられましたよね?」と言われて、Co-Edoの正式名称を変更したことをすっかり忘れて「会社名?変えてませんよ。他の会社じゃないですか?」とすっとぼけた受け答えをしてしまった田中弘治です。


「コワーキングスペースとシェアオフィスの違い」というテーマでコワーキング界隈の一部が盛り上がっていたようです。

ことの発端はフジテレビのホウドウキョクというニュースサイトで厚切りジェイソン氏の「厚切りX」内で、「コワーキングスペース」をテーマにした回のこと(ライバルがいても大丈夫。大企業もこれからは「コワーキング」の時代
ゲストに三井不動産の法人向けシェアオフィス「WORKSTYLING」を手がける川路武氏が出演し、番組の冒頭、厚切りジェイソン氏が「コワーキングとシェアオフィスはどう違うんですか?」と質問したところ、「明確な定義はない」と回答したのが、コワーキングに関わる一部の方々の琴線に触れた、もとい逆鱗に触れたからだと思います。

まあわたしもそうですが、「単なるシェアオフィスとコワーキングスペースは違うよ。こちとら『コワーキング』であることに誇りを持ってるんでい、てやんでぃ」という心持ちでコワーキングスペースを運営しているわけですから、反応をした人にとっては「シェアオフィスなんかと一緒にしないでよ」ということなのでしょう。

とはいえ個人的な見解としてはコワーキングスペースというものが多様化しているなかで、こういうものがコワーキングでこういうものがシェアオフィスという明確な区分がないというのもある意味事実なのかと思います。

番組の限られた時間の中で「視聴者に端的に説明する」にあたり、口をついて出た言葉が「明確な定義はない」ということであれば、それもそれでひとつの回答ではないかと、コワーキング界の日和見担当のわたくしとしては思うわけです。
記事では割愛されていますが、動画を見ると厚切りジェイソン氏による「ないんかい!」という丁寧なツッコミがあり、その後の番組の流れと「コワーキングってはじめてきいた」という視聴者を考慮したうえでの、いわゆる「お約束」のやりとりとして成り立っているかなと思います。
要は「コワーキングスペースとシェアオフィスの違いって曖昧」ということが言いたいというよりは「違いが小さくなってきたよね」とか(そもそもコワーキングという言葉を知らない人に対する)「大体一緒なので知らなかった人も安心してね」というメッセージかもしれないのです。

ニュースサイトの番組でそこまで考慮されていたかは別ですが、ここで言いたいのは、この発言に対し「勉強不足」というほどの発言かというと、その後の発言を見ればそうではないということが分かります。
三井不動産といえば従来「Clipニホンバシ」と柏の葉キャンパスの「KOIL」のふたつのコワーキングスペースを運営していて、単なるシェアオフィスではなく、しっかりとコワーキングスペースとしてスペースづくりをしている企業です。
まったく知りませんでしたが、今では「31VENTURES」としてブランドを統一し、拠点も幕張、霞が関、神谷町と、コワーキングのみならず個室型のスペースも含め、おもに企業ユースを狙いにいく方針のようです。(このへん詳しい方、ぜひ教えていただきたいです)
出演した川路さんという方、とてもよくコワーキングやその周辺の事情を理解されていると感じました。(わたしはおそらくこの方との面識はないと思います)

三井不動産や(東京急行電鉄が運営する)NewWorkにとどまらず、企業ユースに対応するサービスも今後増えていくでしょう。
Co-Edoとしては既存のコワーキングスペースをネットワーク化する仕組みの構築を、一日も早く実現していかなくてはと、気がはやるばかりです。
(業務連絡:あの話いそぎましょう)

さて、記事はもとより、ぜひ動画の方も、コワーキング界隈の住人は見たほうが良いかなと思うわけですが、今回は「コワーキングスペースとシェアオフィスの違い」に絞って、個人的な見解を語っていこうかなと思います。

というのも、外部の人からコワーキングについての記事があがると、(この件に限らず)一部のファイタータイプの方々による「間違ってる!とっても間違ってる!」という意見が上がったりするわけです。
しかしながら一方で、「コワーキングってこういうもの」とか「こういうコワーキングスペースが理想だよね」のように語られることって、(もうさんざん語り尽くしたからかもしれませんが)あまりに少ないなと思います。

年末恒例のアドベントカレンダーも、その多くがコワーキングスペースの運営者の記事になっていて、これでは健全なコワーキング文化の発展や継承には繋がらないのではないかと危惧していたところ、コワーキングスペース運営者の大先輩である大阪・十三のコワーキングスペース・JUSO Coworkingの深沢 幸治郎さんの記事を読みました。
コワーキングスペースとシェアオフィスの違い – Suikolog

とてもよくコワーキングスペースとシェアオフィスの違いがまとまっているので、コワーキングスペース界隈の方はぜひご覧いただき、そしてご自身の考えるコワーキングスペースとシェアオフィスの違いをブログに書いていくと良いのではないでしょうか。(それぞれ少しずつ考えていることは違うと思いますので)

読みながら気づいたのですが、じつはわたくし、大きな声では言えませんが「コワーキングスペースとシェアオフィスの違い」ってあまり考えたことがないのです。
なんとなく違いはあるし、声を大にして「全然別物!」という意見を発信されている方々の意見にも概ね異論はないのですが、一方で「明確な違いも以前ほどではなくなってきている」と思うのです。

定義としては深沢さんの記事のほうが近いと思うのでそちらをご覧いただくとしまして、ここでは、あえて別の主張をしていきたいと思います。

まず前提として「シェアオフィス」っていう言葉っていつくらいにどう生まれたのでしょう?

Wikipediaのシェアードオフィスのページには「複数社で同じオフィスを共有するオフィスを指す」とあり、また「レンタルオフィスなどもこれにあたる」とあります。
シェアオフィスというワードはレンタルオフィスを含むわけですから、関係性としては、コワーキングスペースも含むといっても良いでしょう。

では、シェアオフィスと区分されるコワーキングスペースとは何かというと、ざっくりいって「コミュニティ機能が存在していて、利用者同士が交流可能なシェアオフィス」といえるかもしれません。

コワーキングスペース運営者が意識するとよいとされる2つの要素「コミュニティ要素」「ワークスペースとしての利便性の要素」(CW理論)の「コミュニティ要素」の有無がコワーキングスペースであるのか、単なるワークスペースなのかの分岐点だと思います。

ここで疑問となるのが
  • オープンスペースか個室・ブース席の違い
  • 月額会員契約が必要かドロップインで利用が可能か
といったW要素の違いで、コワーキングスペースとその他のシェアオフィスを分類できるかという点ですが、これがなかなか難しいというのが正直なところでしょう。

コワーキングスペースで月額会員にほぼ限定しているオオサカンスペースCONTENTZのようなスペースもありますし、最近ではドロップインを受け入れている(オープンスペースを有する)レンタルオフィスも増えてきています。

となるとやはり「コミュニティ要素の有無」がコワーキングスペースか否かを分け隔てるのでしょうか?

しかししかし。

これはこれで難しいと思います。
コミュニティなんてものは、主宰側が望むと望まないとにかかわらず生まれたりしますし、スペース運営者が「ここはコワーキングスペースだよ。えっへん!」と言っていても、(極端な話)だれも利用しなければコミュニティなんて生まれようがありません。
イベントをやっていればよいかというとそういうわけでもないでしょうし、レンタルオフィスでも会員同士が繋がり合い、結果としてコミュニティを有し、そのコミュニティに魅力のあるレンタルオフィスだってあるでしょう。

境はどんどん不明確になってきているのです。
もはや「コワーキングスペースをやっていると思って運営しているかどうか」という違いで分類してしまって良いのではないかと(乱暴)

それでもあなたは思うかもしれない。
「だってコワーキングとレンタルオフィスはそもそも別物。コワーキングは働き方のことだもの」と。
いやいやコワーキングという語句にはスペース(空間)という意味を含んでいるという意見もあります。
WikipediaのCoworkingのページには「Coworking is a style of work that involves a shared working environment, often an office, and independent activity.」「Coworking is not only about the physical place, but about establishing the coworking community first.」ということで、しっかりとオフィスとの記載もあります。
海外のコワーキング事情に詳しい方のなかには「コワーキングスペースを指して」あえてコワーキングという言い方をするかたもいらっしゃいます。
(わたしはカタカナでコワーキングと書くときは大抵「働き方」の意味で使い、空間を表すときは冗長かもしれませんが「コワーキングスペース」と記述しています)

さあだんだん分からなくなってきました(笑)
(こういう物議を醸すような問題提議が大好きです。真面目に捉えられると困りますが)

ここでコワーキング界の重鎮ともいえる佐谷さんの2011年8月の投稿をみてみましょう。


2011年8月の時点ですでにこのような発言です。まさにコワーキング文化を日本に根づかせたイノベーターですね。

佐谷さんは2012年に出版した『つながりの仕事術~「コワーキング」を始めよう』において、シェアオフィスとコワーキングスペースに求めるものの違いから、いろんなひとに出会え、気軽に話ができ、場合によっては共同プロジェクトが生まれるようなことがコワーキングスペースの魅力の中心であると書かれています。

たしかにその意味ではレンタルオフィスにオープンスペースをつくっただけで、「コワーキングスペースでござい」と言い張るようなところはコワーキングスペースではありません。

昨今の「(コワーキングスペースと)言ったもの勝ち」みたいな風潮が、以前よりコワーキングの文化について考えている方々にとっては、とてももやもやする状況であり、それゆえ「ほんの少し語気を荒げた」発言に繋がるのではないかというのは想像に難くありません。

もちろんわたしも人生で初めて訪れたコワーキングスペースでのひととひとが繋がっていく体験が、リアルなSNSをVR的に体験したかのような、他では味わえない貴重な体験として記憶しているからこそ、自分でもそのようなスペースを作りたいということで、必死にCo-Edoを運営しているわけです。
ありがたいことに多くのコミュニティに利用していただいていますし、Co-Edoがほかのコワーキングスペースに与えた有形無形の影響というのもあるのではないかと思います。

代名詞のようになりましたコワーキングスペースの世代論も、記事の末尾で書いたように、この先どのように多様化したとしても(わたしや)「あなたが理想とするスペースが中心になっていると良い」という思いで書いています。

多様化していくコワーキングスペース事情を見つつ、とはいえ決して「どこそこはコワーキングスペースではない」というような言い方もせず、助成金のために(強引に)コワーキングスペースを名乗るようなところも否定せず、書きました。

「多少間違った使い方でも」コワーキングスペースという単語自体が一般化されていくことに(今でも)一定の価値があると思います。
その一方でまた「どうしても間違った使い方をされてしまうもの」でもあると思います。

コワーキングスペースが多様化していく理由として、コワーキングというものが非常に曖昧なものというのがあり、また、曖昧なものであるから、わたしやあなたを惹きつけるのではないかとも思ったりします。
以前はよく、コワーキングスペースを作りたいという方の話を聞くと、「他にはないコワーキングスペースをつくりたい」という言い方をするひとがたくさんいました。
そうやってみんなが(それぞれ)「他にはない魅力」を追い求めたからこそ、コワーキングという文化は良い発展してきた面もあるのではないかと思います。

個人的なイメージでは、コワーキングというものは、時代に合わせて、多少形を変えながら、発展していくものなのです。
たとえば仮にコワーキングスペースの定義に「オープンスペースであり個室をもたないもの」というのがあったとすると、恐らく、今のように「働き方改革」などとあわせて国が助成金の予算をつけるようなことは無かったでしょう(東京都が実施する「インキュベーション施設整備・運営費補助事業」ではコワーキングスペースを作ることが要件に該当すると明記されていますが、個室を有することが受給条件となっています)

わたしはコワーキングという文化が生みだすメリットを享受できるのであれば、Co-Edoが5年後いまのかたちをしている必要はないと思っています。
昨年のフロア拡張時には、貸会議室に近いフロアを作りましたが、これは「現状の勉強会利用者が既存の設備では足りてない」ためにその不満を解消するという面とともに、「貸会議室による収入を『コワーキングスペースの価値向上』に回せるのではないかという仮説」もあって今の形にしました。

ホウドウキョクの動画でもセキュリティ面を考慮した設備のニーズについても触れられています。
Co-EdoにはWPA2-EnterpriseというWifi面のセキュリティはあっても、個室という意味でのセキュリティは、現状ではまかなえていません。
W要素もコワーキングスペースとしての重要な要素である以上、利用者が望むのであれば、今後は個室やそれに準ずる設備というのは必要になってくるかもしれません。
(Co-Edoはいまのところそこに手を付けるフェーズにいないのでできませんが)

では、「多少間違った使い方」で「コワーキングスペース」という言葉が使われてしまった場合に、わたしたちができることは何でしょうか。

ひとつはやはり情報発信なのではないかと思います。
しっかりと、ひとりひとりが、それぞれの「コワーキングスペース」というものの定義や理想を発信していくことで、自ずと(わたしや)「あなたが理想とするスペースが中心になっていく」と思います。

また、運営者としてわたしができることは、他のコワーキングスペースの運営者から恥ずかしくない「コワーキングスペース茅場町 Co-Edo」を築いていくことです。
「コワーキングスペースに関わる人が物心両面で豊かになるように支援する」という理念を実現するよう(まだ道半ばですが)日々努力していきたいと思います。
最近発信ができていないことに少しだけ反省しつつ、まあぼちぼちと、楽しみながら、今後もやっていこうと心を新たにしました。

今月中旬に久しぶりにCo-Edo交流会をやります。
今回は夏季休暇中にスタッフをやってくれている大学生のスタッフが中心に企画してくれています。

良いコミュニティをつくり、それを維持していくのはとってもとっても大変ですが、コワーキングスペース運営者の皆さん、引き続きいっしょにコワーキング文化の発展のためにも、頑張っていきましょう!
どうぞよろしくお願いします m(_ _)m

そんなわけで『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』をクリアし、物語の余韻にひたっているところです。(以下、DQ11と表記)

3DSでの発売は『ドラゴンクエストIX 星空の守り人』(DQ9)以来となりましたが、今回はPS4と3DSの2機種での同時発売で、さらにNintendo Switchでも後日発売という異例づくしの展開でも話題です。

(以下、未プレイの方やクリア前の方に最大限配慮しつつ、続けます。ドラクエ関連のリンクはすべて公式サイト)

DQ11はゲームをプレイしていることを忘れて、物語を楽しめる

DQ11プレイ中からずっと感じていたことですが、今作は「物語がとても良い」ということです。
理由ははっきりしていて「主人公や仲間を始めとして登場人物のことがいつも以上によく描かれている」から。

これまでもドラゴンクエストシリーズは物語は良く、そしてマニアには他作品との繋がりなど、奥深い要素を楽しむための仕掛けもあるのですが、(ライトなユーザーの僕としては)「あくまでゲームのための物語」という感じがしていました。

DQ11は、ゲームをプレイしているにも関わらず、物語を楽しめるように作られていて、多少おおげさにいえば「小説・映画・演劇のような作品と同等に物語を楽しめる」のです。

「RPG(ロールプレイングゲーム)」はストーリーを楽しめるゲーム形式ではありますが、とはいえ、「ADV(アドベンチャーゲーム)」ほどストーリーのみを追うわけでもないため、いきおい、RPGとしてのゲーム性とのバランスで、物語の部分は置き去りにされてしまう部分があるかと思います。

しかし、DQ11はそのゲーム性とストーリーのバランスを見事に調和させています。

圧倒的な親切設計のゲームシステムが物語を楽しませてくれる

ドラゴンクエストシリーズは、ゲームシステムにおいてもとても親切設計なことで有名ですが、DQ11は本当にストレスなく進めていくことができます。

シリーズ共通の要素として「全滅してもゲームオーバーにならない」というのがありますが、そのような土台のうえに、さらなる親切要素が随所に見られました。

冒険の書というセーブデータを3つまでもてますが、普通にプレイする分には「ひとつあれば充分」と感じます。「失敗したからあのときまで戻りたい」ということがほとんどありません。

特徴的なのが「スキルパネル」という今作のスキルシステム。
個人的にこのような、各プレイヤーが得られる能力を選択するシステムが楽しめません。というのも、先々がわからないのに「今どれか選べ」と言われても困ってしまうのです。(ホイミとルーラやリレミトのどちらかの魔法しか取得できないと、もし言われたら困る感じ)
このへんはゲーム側で勝手に成長していってくれると助かります。

最終的にすべてのスキルを得られるのであれば別ですが、ドラクエの場合、クリア後にやりこむことができるようにクリア時点までに最強になるというわけではありません。魔法のように勝手に覚えていってくれるととても助かるのですが(笑)

そんなスキルシステムですが、今回はスキルポイントの振りなおしが可能(スキルリセット)なため、僕のように優柔不断で慎重というより臆病なタイプにはとくにありがたいです。
(そして一度もスキルリセットしないでクリアしたのですが・・・)

今作で導入された「ゾーン」と「れんけい」についても同様です。
敵の攻撃をうけたりするとゾーン状態になり各メンバーの能力が(一定期間 ≒ 一定のターン数)アップするのですが、プレイできるメンバーが5人以上となり、直接には敵と相対しない後列に、戦闘中のメンバーをさげた場合も、ゾーンの状態は保持されます。
また、複数のメンバーがゾーンの状態に入ると「れんけい(連携)」して特殊な能力を使えるようになるのですが、主人公や仲間の能力(すばやさ)にかかわらず、ターンの先頭で能力を使えるため、「せっかくれんけいできるようになったのに使いそびれた」ということがありません。

後列のメンバーのゾーン状態が保持されることとあわせると、メンバーを入れ替えながらプレイすることでかなり柔軟にれんけいを使えるのです。
また、DQ11はメンバー全員のHPを一度に回復できるお馴染みの呪文「ベホマラー」をはじめとした回復呪文(回復特技含む)は、後列のメンバーのHPも回復させます。(ただしベホイミやザオリクなどひとりに効く呪文は戦闘中のメンバーのみしか選択できません)

ゲーム終盤では3人以上のメンバーが全体回復の能力をもった状態でプレイできますので、HPについてはあまり気にすることなくダンジョンを攻略しにいけます。
死を意識することがなくなるというのは物語を楽しむうえでとても重要で、前述した「ゲームオーバーにならないゲームシステム」とあわせると、プレイ中のストレスがほとんどなく、冒険の世界に没頭できます。
物語に入り込んで「3回泣いた」という友人がいますが、それだけ没入できるのも分かる気がします。

人間の弱いところと立ち向かう登場人物たち

そんな親切設計のゲームシステムに支えられ、DQ11の物語は「ひと」を中心に進んでいきます。

冒頭、勇者の子でありながら辺境の村で育った主人公が母の手紙に従ってデルカダール王のもとへ行くと、「悪魔の子」と言われ囚われます。
ストーリー | ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて 公式サイトより)

その後の冒険で、複数のなかまと出会うのですが、誰しもが「ひととの関わりで」何かしらの事情を抱えています。
とくに主人公は国王に逆らっているわけで、途中なんどかデルカダールの兵士とも遭遇しますし、これまでのドラゴンクエストシリーズの「ひと」対「魔物」という構図とはすこし毛色が違います。

これは推測ですが、この「ひと」対「ひと」の構図はこれまでのシリーズではあえて避けてきたのではないかなと思いました。(全作をプレイしているわけでもないうえに、これまでの作品の物語を覚えてないくらいには世界に浸らずにプレイしてきているので間違っているかもしれませんが、すくなくともあらすじレベルでこのような構図を打ち出してはいない気がします)

この構図には賛否両論が容易に予想されますが、それを補ってあまりあるほどのストーリー展開が待っています。
プレイに影響しない範囲で少しだけネタバレすると、主人公は勇者の能力で、過去の情景が見えたり、場合によってはその世界を少しだけ体験することが何度かありました。
それにより、主人公およびなかまたちのことを、より深く理解することができるのです。
生きていて誰しも経験する何かしらの後悔など、人間の弱さや避けたい気持ちを抱えていることもあります。

プレイヤーの目的は「ゲームをクリアすること」ですから、物語の部分はどうしても「読み飛ばしたくなる」要素ですが、今回はクリアを意識しすぎて物語から距離を置くのはもったいないとすら思えます。
数年前にプレイしたDQ9のときと比べると、その物語性と、物語を楽しむための仕掛け(ゲームシステム)の部分が段違いに良くなりました。
DQ9と同様、物語はほぼ一直線に進んでいきます。が、DQ9のときと違って「なんか一本道を進んでるなあ」という感覚は、いっさいありませんでした。

「次はどこへいく」というのは明確なのでプレイ中に迷うことはないのですが、いっぽうで「次の場所では何がある」というのは、かなりじょうずに隠されています。
これにより「冒険している感」がとても心地よいのです。わくわくが続いていった先に物語がある感じ。

物語を読み進めていくという意味で小説のようで、ファンタジーな世界感が映画を見ているようで、仲間と冒険している感じが目の前で繰り広げられている演劇のようでもあるのです。

控えめに言って最高かよと思いました。

いろいろあってラスボスを2度倒すことになり2時間ほど余計にプレイしましたが、総プレイ時間は約80時間ということで、10日間やりきりました。社会人とは思えません。経営者とは思えま(ry

というわけで仕事をほったらかしてしまい申し訳ありません m(_ _)m

現実に還ります。「主人公はルーラを唱えた!」 ←帰れなそう



(余計な追記)
主人公の名前を「こえど」にしようとしたら、「濁音込み6文字までつけられる」ということで3文字あまってたので、ふざけて「りあん」をつけてみたら大正解。シルビアから「こえどりあんちゃん」と呼ばれるたびにニヤニヤできて、良かった(笑)

いつからだろうか。テレビでお天気キャスターが「きょうは曇り空でところにより雨模様のすっきりしない天気です」という言い方を耳にするようになった。

もちろん自分が知らないだけで、気象予報士という資格ができる前から、そのような使い方があったのかもしれないが、(あくまで)個人的に、こんなにすっきりしない気分となる表現はめずらしい。

「すっきりとした青空」という表現であれば分かる。すっきり晴れ渡る光景が目に浮かぶ。
「はっきりしない天気」という表現であれば分かる。雨が降るのか降らないのか、微妙な一日となるのであろう。

しかし、曇天や雨模様の天気を指して「すっきりしない天気」というのは、あまり適した使い方ではない言葉遣いではないかと思っている。
(詳しい方にはぜひ教えていただきたい)

すっきりするかどうかというのは、突き詰めて考えれば「気分」の話だと思う。
気分の話だからこそ、それはひとそれぞれであり、晴れだからすっきりした気分になる・雨だからすっきりしないというのは、他人から言われることではないはずだ。

以前みた、あるベテランの気象予報士とお笑い芸人の会話を思い出す。
梅雨時、雨模様の空。お笑い芸人は、気象予報士を(視聴者の気持ちを代弁し)このように呼びかけた。
「雨が続いて、嫌ですねー」

そのときはわたしもそう思ったのだが、超がつくほど真面目な、その気象予報士のかたは次のような対応をしたのだ。(詳細な表現までは覚えていない)

「たしかに雨が降ると傘が必要になったり困ることもあります。ですが、この梅雨があることで、稲が育ち、美味しいお米が食べられるのです。お米を作っている農家の方々にとっては恵みの雨です。梅雨時に雨が降らないことのほうが困ると思います」

このひとことで、わたしの雨に対するネガティブな印象は吹き飛んだ。

このやりとりが偶然生まれたものなのか、もしかしたらプロ同士の優れたかけあいだったのかは、20年以上前のことであり今となっては分からない。
だが、いずれにせよ、天気のプロによる、造詣の深い対応であったことは間違いがない。
「すっきりしない天気」という表現をテレビなどで耳にするたびに、そんなことを思うのだ。

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